慶性院の水天像 市重宝
所在地東大和市芋窪六丁目1352番地
慶性院 東山門入って右側
東大和市重宝
指定 昭和五十八年三月一日
慶性院の東側山門を入ってすぐ右側に3体の石仏があります。
左・庚申塔 中・弁財天 右・水天像
左 庚申塔 享保7年(1722)10月吉日
中 弁財天 寛延2年(1749)
右 水天像 江戸時代末期(東大和市重宝)
一番右側にまつられているのが「水天像」です。
右手に剣を持ち、左手に龍索を持つ石仏です。東大和市の重宝に指定されています。
東大和市重宝
指定 昭和五十八年三月一日
この水天像は、慶性院の第19世住職 円鏡法印慈賢が、江戸時代末期に建立したものである。
水天は、世界を守護する十二天のひとつで、水難除けや雨乞いの祈願の対象となるため、池や川のほとりに建てられる例が多い。
この像は大正11(1922)年、村山貯水池建設に伴う寺の移転とともに、現在地に移されたものである。
水天像は、全国的にも例が少なく、都内にある3基のうちの1基で、きわめて貴重な彫像である。
東大和市教育委員会
この像の特徴は右手に剣を持ち、左手に蛇形をした龍索を持つ姿です。『東大和市生活文化財調査概要報告書』では、「観音の化身とも云い、また毘沙門天の化身なりともいわれる」としています。
村山貯水池の湖底に沈んだ石川の地から移転してきました。
石川の地は狭山丘陵からの湧き水を集めて流れる石川の最上流部に当たります。石川の傍らには水天像の左側の「弁財天」や住吉神社の境内にうつった「弁財天」など多くの水に関する像がまつられていました。
文化十四年丑三月吉日
十九人講中
『東大和市生活文化財調査概要報告書』は、「故老の談によれば、その石川が付近一帯の水田を潤しており、小流の側には慶性院に移した弁才天尊の石碑があり、その近くの湧水池の側に、この『辮財天』の石碑があったと伝えている。弁才天が水の恵みを与える神として、土地の農民に信仰されていたことは、その『辮財天』の石碑の左側面に刻まれた文字によって、およそ判断される。(『東大和市生活文化財調査概要報告書』p85)
としています。現在側面が読めないのが残念です。
水天
芋窪の慶性院の入口にある水天の石像は、住僧慈賢が造顕したもので、寺伝によれば普賢菩薩というが、その像容は普賢菩薩とは異り、右手に剣を持ち、左手に龍索を執った形相であって、これは図像抄に伝えた水天供法に見える形像である。この像の左手に持った蛇形は、深沙神(深沙大将)の三昧耶形である。伝えによれば、深沙神は、龍沙河の大蛇であり、玄桀三蔵が渡天の際に感得した神であって、観音の化身とも云い、また毘沙門天の化身なりともいわれる。
p87
慶性院にある石像は、いつの頃か、慈賢(円鏡法印)が勧請し造顕したもので、それについて、狭山之栞には『(前略)円鏡法印は姓を田口と云い下宅部の産にして三光院比丘順孝の徒也。同師後の山中に水天の像を勧請す。』と記してある。慈賢は文久2年(1862年)に66才で遷化している故、この水天の像が造顕されたのは、幕末であることが知られる。この石仏は、慶性院が旧地より移転の時に、現在の場所へ移されたもので、この周辺地域においては実に稀な石仏である。
(『生活文化財調査概要報告書』p87)
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)
ウキペデイア
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)とは、密教に於いて、仏を表す象徴物の事。 三形(さんぎょう)とも略称する。 ちなみに三昧耶とはサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉で、どの仏をどの象徴物で表すかが経典によって予め「取り決められている」事に由来する。
十二天の一つ、水天をあらわした石造物は全国でもきわめて少なく、都内では3基、市内では唯一であり、貴重である。江戸時代末期の住職慈賢の造立である。